Profile

立教大学社会学部社会学科卒。
1995年外資系代理店マッキャンエリクソンを退社して独立。90年代後半G-SHOCKブームの牽引車として活躍し、2004年ファッションブランドのPRを行うifca showroomを表参道に開設。
現在、ファッションブランドやスポーツブランドに特化したPR会社で数多くのPR戦略を指揮する。
G-SHOCK、ASICS、Amazon、FOREVER21 and more
ダイビング、歴史小説、DJイベント、城廻り
東京生まれ 鎌倉育ち
弊社のクライアントである「FOREVER21」が愛知県初の店舗をオープンした。
場所は6月27日に新開店したイオンモール名古屋茶屋。約200の専門店で構成するショッピングモールで、総賃貸面積は7万5000平方メートル。名古屋市南西部の港区に位置する。
東側1階にオープンし、売り場面積は約1200㎡。
弊社ではこの新開店イベントを運営しておりViVi(講談社)の人気モデルをブッキングした。このオープニングイベントの見学と視察のため久し振りに名古屋を訪れた。
「FOREVER21」とはアメリカ本社との直取引のため、この機会に日本法人の方とも初めて名刺交換した。
ファストファッションではFOREVER21以外にH&M、Old Navy、Charles&Keithが出店し、弊社のクライアントからは「チチカカ」が3階に、同じフロアーには鞄大手の東京デリカの「サックスバー」も出店していた。
東京デリカの木山社長とも偶然お会いしこの店舗への期待感が伺えた。
そして並みいる店舗の中でFOREVER21がイオンモール名古屋茶屋の全テナントの中で売り上げ1位になったらしく、弊社で獲得したTV等のパブリシティ露出も効を奏したようだ。
さて一昔前はイオンモールと言うと巨大なだけで大衆的な存在であったが、ファストファッションだけではなく大手アパレルの感度の高い新業態も散見された。
そういう新業態のキーワードは「ライフスタイル」。
その走りは「ロンハーマン」になるのだろうか。
所謂西海岸的なその種の「ライフスタイル」セレクトの新業態を見学したが、多くのセレクトにあるようなインポートの雑貨をセレクトし、価格を抑えたオリジナルのアパレルを売り利益を稼ぎたい傾向に感じた。
例えばリュックなどは「チチカカ」でもセレクトしているブランドなので、バイイングという部分では今やオリジナリティを出すことより売れ筋の画一化を志向しているようである。
都会も地方もこのAEON MALLの進出で画一化が一層進むだろう。
高感度セレクトと言うのが実態を伴わない死語となる今の時代である。
視察を終えて「チチカカ」の親会社にあたる「Village Vanguard」(名古屋本社)の方々と夕食を共にした。
「Village Vanguard」もこのイオンモールに出店していた。
いつもの「Village Vanguard」らしさというより、イオン向けのおとなしめのMDであった。
中央線文化を代表する「Village Vanguard」さえもAEON MALLに呑み込まれる。。。
この時代を象徴しているようだった。
なぜ「PR会社」を起業したのか?
よく聞かれる質問です。
学生時代から自分は広告業界を目指していましたがPR会社に入ろうという発送は0でした。
独立前に自分が所属していた企業は外資系の広告代理店。
当時は日本で一番大きな外資系広告代理店でした。
その会社のSales Development局という部門のプランナー。
分かり易く言うとSP局の企画担当。
その後、Direct Marketingの部門と統括し、Integrateted Marketing局と変更。
統合的なマーケティングを推進する名称ながら、PR担当は存在しない片手落ちな部門でした。
つまり、日本で最大の外資系広告代理店にはPRの機能は無かったのでした。
当時はPR会社と言うと代理店の下請け的な色合いもあり、広告を予算が無いからPR会社でも
使うか、というネガティブな存在でした。
自分の中に「PR」というのはリリースを持ってメディアを回る「足」のような存在で、自分がする仕事としては視野には入っていませんでした。
当時、様々なプロモーションの仕掛けを行っていた自分はそれがメディアに載りより多くのユーザーに伝われば、さらに効果が増すのにと残念な思いをしていました。
しかし、在籍した会社ではお金を使い広告スペースを買うしか伝える手段がない、予算が無くてもメディアで紹介できる「PR」という手法に関心を持つ様になりました。
PRという手法にさらに関心が高まったのは「G-SHOCK」というまさに広告や販促ではなく、PRによって広まった商品を目の当たりにしたからです。
1983年に発売されたG-SHOCKは10年程、冬の時代がありました。
10年間全く売れずに南米等の途上国の労働者用の時計としてひっそりと存在していました。
日本でも他の安売りデジタル時計と共に量販店で埃をかぶっていました。
それが突然、日本で若者を中心に火が付いたのは雑誌の記事がきっかけでした。
自分が初めて見たのは、Beginという雑誌で渋谷のファイアー通りにある古着屋の店員がG-SHOCKの逆輸入モデルを手にして「これがアメリカで流行っている」という記事でした。
続いて別のモノ雑誌の中で、湾岸戦争でG-SHOCKが使われアメリカの兵士に愛用されているという記事でした。
こういう記事が増えて来ると「G-SHOCK」も若者の中でトレンド的な商品として注目を浴びる様になって来ました。
当時は「swatch」が若者時計のトレンドでしたが、それに迫るものとして「G-SHOCK」の存在が意識され始めたのです。
しかし、発売元のカシオはその動向に目を向けること無く、全く別の商品に広告を投入しましたが、そのデジタル時計は市場で成功せずにそのブランドも今は消滅しています。
このG-SHOCK現象は全く企業や代理店の仕掛けではなく自然現象と言って良いものでした。
これを意図的に仕掛けられないか、と自分は考えました。
その時はそれが「PR」という手法であるという認識はなく、従来の自分の仕事の延長の「プロモーション」の一部という認識でした。
そして、当時のPR会社も企業や代理店の代行で商品情報を媒体にリリースするのがメインの受け身の存在でした。
つまり自然現象のようなムーブメントを意図的に仕掛ける、そんな会社が作りたいと思ったのが起業のきっかけです。
ただ、「PR」という認識は無かったので当時は「PR会社」とは称していませんでした。
自分はリリースを持って媒体回りをするような労働には関心は無く、記事を書いてもらうようなNews Valueのあるコンテンツを考えることでした。
G-SHOCKにとってはそれが「限定モデル」というヤツでした。
書き始めた「イルクジ」の秘話であったが、実は今ひとつ気分が乗らなかったため、更新が滞っていた。
なぜなら、この後の展開はあまりにも性急にG-SHOCKがブーム化し、特にこの「イルカクジラモデル」の人気は凄まじく、自分の仕掛けの範囲を超えていたからだ。
発売されたこのスケルトンタイプのイルクジは日本各地であっという間に売り切れが相次ぎ、人気のあったG-SHOCKは数日で、残ったBaby-Gもその後に完売して行った。
「イルカクジラ」という意外なテーマでありながら普遍的な好感を呼び起こしたコンセプト、さらにG-SHOCKがスケルトンという驚き。
それらが相まって消費者の範囲はストリートを超えて、大衆化するに至る。
それを業者が高値で売り始め、Nikeと共にG-SHOCKは高く売れる投機対象になっていった。
当時のG-SHOCKブームは、そして今のG-SHOCKブランドの人気のルーツはこの「イルカクジラ」にあったことは間違いない。
それほどこの「イルカクジラ」の人気は予想を超えたもので、一つの事象だった。
マスコミの関係者だけでなく、当時G-SHOCKを馬鹿にしていたカルチャア系の人達やタレント等、多数の人から自分にこのG-SHOCKが貰えないか、買えないかを打診して来た。
それをさばくだけで、うんざりしていた。
調整しようにもカシオにも在庫が無く、どうしようもなかった。
1996年3月のことであった。
前述した発売数ヶ月前に「Diver」誌上で行った先行販売。
部数的に言えばマイナーなのだが、数百本があっという間に完売した。
そこを端緒に当時は影響力のあった雑誌に次々と掲載され、発売された各店舗では問い合わせが鳴り止まぬ感じで本発売も完売が相次いだ。
自分がオーストラリアロケで撮影した写真を使用したカタログが店頭に並んでも、売る商品は無かったのだ。
カタログ自体が売買の対象にもなった。
本人の仕掛けを超えたこの反響に戸惑うばかりだった。
次の自分のミッションはこの化け物に成長した「イルクジ」の次作をさらに売るような企画を練り上げること。
成功の美酒に酔う間もなく、当時カシオがあった西新宿の住友ビルに通う日々が続いた。
G-SHOCKの生産には一年以上を必要としていて「イルカクジラ」がいくら売れても増産することは不可能。
次は生産個数を倍増し、さらにそれを売りつくす施策が必要である。
当時、商品企画部の次長だった伊東氏から呼び出され、このスケルトンを「イルクジ」だけでなく他のテーマにも波及させたいので、「環境/海」をテーマに新しいコラボモデルを考えて欲しいというリクエストもこの頃にあったと思う。
「アイサーチ」ではない別の海をテーマにした環境団体を探す必要に迫られていた。
「イルカクジラ」を端緒に環境をテーマにしたコラボモデルを今後、続発することになる。
1994年に初代「イルカクジラ」発売し、それは不発に終わる。
翌年の95年にマッキャンを退社し独立。
そして、年末にオーストラリアにロケをして、96年3月に「イルカクジラ」二代目を発売し、
大ヒット。
自分の人生の怒濤のような転換期にこの「イルカクジラ」も「運命の女神」の様に存在したのである。
本日よりifca showroomのAW展示会が始まった。
雨だったが、初日の動員も上々だった。
今年でifca showroomは10周年。
設立は2004年5月である。
弊社の沿革によると、
『アメリカの大手アパレル展示会「D&A(デザイナーズ&エージェント)」と提携、D&A LABを開催。当時流行だった多くのデニムブランドをshowroomにてPR。ifcaショールームでPRを担当する「ディズニーヴィンテージ」が各誌で紹介され大ヒット商品となる。』
当初はアメリカの展示会「D&A」と提携し、営業を中心に行うアメリカ型のshowroomを目指していた。
弊社で日本で開催されるD&Aの運営をし、そこに参加したアメリカのブランドの日本での販売代理を担うという仕組みだった。
前述のディズニーヴィンテージやevilなどの日本での販売代行を請け負い、その他当時のデニムブームに乗り多くのアメリカンデニムを扱った。
※ディズニーヴィンテージは西海岸のセレクト、フレッドシーガルが始めたディズニーとのコラボブランド
だから当時の展示会にはかなりのバイヤーが来場していた。
その後はその仕組みが上手く回らなくなり、投資が比較的かからないPR代行に転向した。
そして現在のPRをメインとしたifca showroomの形となっている。
それから10年。
設立以来のブランドはefffy、Piero Guidi、G-SHOCK/Baby-G。
鞄の流通開拓に強みがあり、設立以来雑貨がメインであった。
その後、Swatch、Amazon、RIMOWA、Reebokなどグローバルブランドが加わり、プロモーション等も総合的に実施出来る統合型の機能も備えた。
そして今回からFOREVER21、チチカカ、花菱等が加わった。
FOREVER21は本国LAとの直契約で、グローバルな所は開始以来変わらない。
かなりアパレルが増えて、華やかなshowroomとなった。
弊社のスタッフがベルギーのアントワープを出張で訪れたようだ。
https://www.ifca.or.jp/blog/blog73.html
昨年からPRを始めているバッグブランド「kipling」の本社がベルギーのアントワープにある。
その関係で各誌とメディアツアーを展開しているのだ。
アントワープと言えばG-SHOCKとも浅からぬ縁がある。
90年代に発生したG-SHOCKのサブブランドにG-COOLがあった。
今はもう無くなってしまったが、モードをテーマに分厚いG-SHOCKの中ではスタイリッシュな外観を持つ個性的なブランドだった。
そのG-COOLのコラボレーション先にかの「アントワープ王立美術院」を選定するという大胆な企画が1996年に計画された。
「アントワープ王立美術院」と言えば「アントワープ6」と呼ばれたアン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ダーク・ビッケンバーグ、ドリス・ヴァン・ノッテンなど、さらにはマルタン・マルジェラを輩出したモードの殿堂である。
敷居が高過ぎるこの学院とのコラボレーションは以下のごとく始まった。
当時ご縁のあったUAの栗野宏文氏(現上級顧問)の紹介により当学院のリンダ・ロッパ氏と巡り会う。(栗野氏はこの学院の卒業制作の審査員であった)
彼女は資料によると学長とあるが、この学院のファッション科のボスであったと思う。
彼女と交渉しファッション科の夏の課題として「G-SHOCK(G-COOL)のデザインコンテスト」を実施し、その優勝作を商品化すると言うものであった。
その審査会参加のため1996年10月、私と前出したG-SHOCKブームの立役者であるカシオの伊東重典氏はアントワープを訪れた。
アムステルダムを経由しベルギーのアントワープに小型機で到着。
翌日、リンダ・ロッパ氏の案内でアントワープ王立美術院を訪問したが、その質素な環境にびっくり。その年の卒業生は3人しかいないと言う。
ファッション界の憧れの学び舎だが、学業が厳し過ぎで卒業は狭き門らしい。
さて、そのG-SHOCKの審査会は大いに紛糾した。
集まった作品が奇抜過ぎて商品化は殆ど不可能だった。
毛皮を貼付けたものなど、G-SHOCKとして機能的に成立しないものばかりだった。
審査員が選んだ優勝した作品のデザイナーはニコと言うウォルターのアシスタントであった。
審査員はリンダ、ウォルターにドリスのマネージャー等、ベルギーのファッション界の重鎮達。
彼等と作品化を巡り、伊東氏や私との間で意見の相違があり論争となった。
自分たちが選んだ作品を商品化するという約束だったのに、日本人は約束を違えるか等々。
最終的にリンダ氏が間に入り、何とか丸く収めてくれた。
さすがに数ある有名デザイナーを育ててビジネスとしても成り立つよう導いただけあり、コテコテの芸術家肌ではなく経済感覚もあるビジネスウーマンでもあった。
その後も紆余曲折を経て1997年8月に「アントワープモデル」は商品化され発売された。
実は苦労の割には売れなかったらしいが、伊東氏と自分には共通の良い思い出となった。