ifca showroomはファッションを
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表参道沿いの表参道ヒルズの目の前という好立地を活かしたPR活動を展開。アパレル、ジュエリー、シューズ、バッグからスポーツブランド、時計、デジタル機器まで幅広い国内外のブランドを展示し、来場するスタイリストや編集者へのお貸出しを行っています。

Profile

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曽原 健
(PA Communication代表)
経歴

立教大学社会学部社会学科卒。
1995年外資系代理店マッキャンエリクソンを退社して独立。90年代後半G-SHOCKブームの牽引車として活躍し、2004年ファッションブランドのPRを行うifca showroomを表参道に開設。
現在、ファッションブランドやスポーツブランドに特化したPR会社で数多くのPR戦略を指揮する。

PR&ブランディング実績ブランド

G-SHOCK、ASICS、Amazon、FOREVER21 and more

趣味

ダイビング、歴史小説、DJイベント、城廻り

出身

東京生まれ 鎌倉育ち

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    【2014/06/05】

    弊社のスタッフがベルギーのアントワープを出張で訪れたようだ。


    https://www.ifca.or.jp/blog/blog73.html


    昨年からPRを始めているバッグブランド「kipling」の本社がベルギーのアントワープにある。

    その関係で各誌とメディアツアーを展開しているのだ。


    アントワープと言えばG-SHOCKとも浅からぬ縁がある。


    90年代に発生したG-SHOCKのサブブランドにG-COOLがあった。

    今はもう無くなってしまったが、モードをテーマに分厚いG-SHOCKの中ではスタイリッシュな外観を持つ個性的なブランドだった。


    そのG-COOLのコラボレーション先にかの「アントワープ王立美術院」を選定するという大胆な企画が1996年に計画された。

    「アントワープ王立美術院」と言えば「アントワープ6」と呼ばれたアン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ダーク・ビッケンバーグ、ドリス・ヴァン・ノッテンなど、さらにはマルタン・マルジェラを輩出したモードの殿堂である。


    敷居が高過ぎるこの学院とのコラボレーションは以下のごとく始まった。


    当時ご縁のあったUAの栗野宏文氏(現上級顧問)の紹介により当学院のリンダ・ロッパ氏と巡り会う。(栗野氏はこの学院の卒業制作の審査員であった)

    彼女は資料によると学長とあるが、この学院のファッション科のボスであったと思う。


    彼女と交渉しファッション科の夏の課題として「G-SHOCK(G-COOL)のデザインコンテスト」を実施し、その優勝作を商品化すると言うものであった。


    その審査会参加のため1996年10月、私と前出したG-SHOCKブームの立役者であるカシオの伊東重典氏はアントワープを訪れた。

    アムステルダムを経由しベルギーのアントワープに小型機で到着。


    翌日、リンダ・ロッパ氏の案内でアントワープ王立美術院を訪問したが、その質素な環境にびっくり。その年の卒業生は3人しかいないと言う。

    ファッション界の憧れの学び舎だが、学業が厳し過ぎで卒業は狭き門らしい。


    さて、そのG-SHOCKの審査会は大いに紛糾した。

    集まった作品が奇抜過ぎて商品化は殆ど不可能だった。

    毛皮を貼付けたものなど、G-SHOCKとして機能的に成立しないものばかりだった。


    審査員が選んだ優勝した作品のデザイナーはニコと言うウォルターのアシスタントであった。

    審査員はリンダ、ウォルターにドリスのマネージャー等、ベルギーのファッション界の重鎮達。

    彼等と作品化を巡り、伊東氏や私との間で意見の相違があり論争となった。


    自分たちが選んだ作品を商品化するという約束だったのに、日本人は約束を違えるか等々。


    最終的にリンダ氏が間に入り、何とか丸く収めてくれた。

    さすがに数ある有名デザイナーを育ててビジネスとしても成り立つよう導いただけあり、コテコテの芸術家肌ではなく経済感覚もあるビジネスウーマンでもあった。


    その後も紆余曲折を経て1997年8月に「アントワープモデル」は商品化され発売された。


    実は苦労の割には売れなかったらしいが、伊東氏と自分には共通の良い思い出となった。

    【2014/05/26】

    ワールドカップの時期が近づいて来た。


    2002年に開催された日韓のワールドカップを記念して開催された「日韓ファッションフェスティバル」(KJFF)がある。

    この総合プロデューサーを私が担当している。


    ifca showroomの前身である「ifca」は当時はインディペンデント・ファッション協同組合と名乗り、経産省の認可を得た協同組合だった。

    国の認可のある団体であるため公的な仕事を行っていた。

    例えば、日本のファッションの輸入を促進するため若手デザイナーの海外進出をサポートするため、コンテストを行い優勝者をアメリカの展示会への参加費用を提供する、ような事業を行っていた。


    この「日韓ファッションフェスティバル」(KJFF)もワールドカッブに因み日韓の文化交流を促進する名目で経産省の肝いりで企画された。


    このような特設ページもまだ残っていた。

    http://www.excite.co.jp/fashion/kjff/rebyu.dcg


    ソウルで開催されたこのファッションショー。日本で言えば武道館のような大会場で開催されたこのイベント。このような大規模な会場で観衆は消費者と言うことも画期的であった。

    また、日本代表のブランドが「blondy」「FINAL HOME」「LAD MUSICIAN」と言う全く異ジャンルのブランドであること、特に今はTGCのような舞台に出ているようなblondyのようなブランドがショーをすることも当時は異例だった。そして、コレクションブランドと同じステージに立つことも画期的で、結果的には東京ファッションを俯瞰的に表現出来た。


    演出は後にTGCの演出で名を高めるドラムカンの田村氏。


    このイベントの流れが2005年のTGCに連なって行く。

    ifcaはこの立ち上げも協力し、後援という形でバックアップした。

    【2014/05/19】

    5/17(土)国立競技場に向かう大江戸線の中でTwitterに流れるPaul公演中止の報。


    結局ポール・マッカートニーの国立競技場2Daysは両日とも、キャンセルとなった。


    1980年のウイングスの武道館公演以来、二度目のドタキャンを演じたPaul。

    日本とは縁が悪いのか。


    1980年の時は来日の際に成田空港で麻薬不法所持で逮捕されたのだから、その衝撃は凄いものがあった。

    刑事に両脇を抱えられたPaulの画像が何度も登場し、Paulファンはその度に胸を痛めた。


    自分は運良くと言うか何と言うか、その時のチケットは抽選で外れていた。

    刑務所で「イエスタディ」を皆のために歌ったとか、色んな報道が流れた。


    その日は手持ち無沙汰となり、急遽銀座で食事をした。


    ラール・エ・ラ・マニエール


    これが以外に穴場でとても堪能した。


    キハチにいたシェフの繊細な味付けと素材選び。

    ソムリエも親切で分かり易いし、セレクトもとても良かった。


    何だか得した気分。


    【2014/05/16】

    自分の備忘録として開始したG-SHOCKストーリーだが、あまりにも膨大な出来事があり記憶を辿るのも疲れて来た。
    そこで、骨休めにG-SHOCKの女性版「Baby-G」を掘り起こしてみよう。

    何せBaby-Gは今年でもう20周年になると言う。(1994年デビュー)
    その頃はまだ自分は会社員としてマッキャンエリクソンに在籍していた。
    G-SHOCKの女性版を作るとかで、オフィスに調査の協力の依頼にカシオの方がいらしたのを
    記憶している。
    その後、渋谷の街で開発のAさん達がリサーチしていたのを少しお手伝いした。

    デビューした頃のBaby-Gはまだ名前が付いていず、G-SHOCKのミニ版という風情で時計にも
    G-SHOCKと印字されていた。
    結局Baby-Gと名付けがされたが、「Baby=赤ちゃん」と誤認されるなど不評であった。

    当時はボディボードのブームで女性ボーダーを囲い込むようなPRを他社でやっていた。
    さらに、当時は渋谷が若者の情報発信地であったので、「渋谷発」というコンセプトで自分のコネがあった渋谷の西武でプロモーションを起業の頃に企画したりした。
    ただ、どれもクールと言う印象にはほど遠い施策だった。
    G-SHOCKはいいけど「Baby-Gにはイケテル印象はないよね」という感じ。

    さて、ここで1996年に私が企画したBaby-GのPR施策について紹介してみたい。

    今や映画監督として一流の存在となった「ソフィア・コッポラ」。
    言わずと知れた巨匠「フランシス・コッポラ」の娘さんである。
    1996年ではまだ映画監督ではなく写真家として注目を集めていたが世間的には無名。
    当時、カルチャー系で注目を集めていた「ガーリーカルチャア」の旗手としてその手が好きな
    女の子には知られたコアな存在だった。

    このソフィアをBaby-GのPR施策に起用した「早過ぎた」企画。
    渋谷パルコでソフィア・コッポラなどガーリージェネレーションの著名女性クリエーターを集めた展示会を開催したいが資金が無いというのが話しの端緒。
    ソフィアを始め、ソニック・ユース&「X-GIRL」のキム・ゴードン、映像作家のタマラ・デイヴィス、等の5名の女性アーティストが参加するというものだった。
    ここにBaby-Gをタイアップさせ、無理矢理「Baby」つけて『Baby Generation』というタイトルをつけてもらいパルコで展示会を開催することに。

    さらにPRの幅を広げるため、雑誌「Cutie」(宝島社)をこのカルチャーの発信地LAを連れて行き、ソフィア・コッポラを取材させることを試みた。
    今となってはファッションの宝島として大した出版社となっているが、当時のファッションはこのCutieだけ。
    このCutieがこの頃から爆発的に売れ始め、この後Spring、Smart、Sweetと快進撃が続く、その前夜である。
    上り坂で強気だった当時のS編集長に会いに行くと、著名なカメラマンでの撮影を条件として出され、伝手を辿りホンマタカシ氏にオファーした。

    ホンマ氏と共にシンガポール航空でLAに到着、閑静な高級住宅街にあるソフィア宅を訪れる。邸宅には豪勢なプールがあり、さすがハリウッドの大物のファミリーと緊張が走る。
    撮影用のBaby-Gを見たソフィアはあまりお気に召さず着用を拒まれる。

    カシオからはどうしてもソファア着用の写真が欲しいと言うリクエストがあったので、苦肉の策として、当時はソフィアが運営していたブランド「Milk Fed」とBaby-Gのコラボを提案し、そのベースモデルなら、と着用のOKが出た。
    結局カシオが売りたい新作はLAで急遽モデルを雇い撮影した。
    さらに『Baby Generation』の期間内にパルコでMilkFedのPOP UPショップをやることも決り、そこでコラボモデルを売ることにした。
    さらにBaby-Gの広告の写真家としてソフィアを起用することも決定し、かなりの立体的なPR施策となった。

    彼女が映画監督としてメジャーになるのは2003年公開の『ロスト・イン・トランスレーション』以降であろう。
    「ゴッドファーザー」を生涯の名画としてリスペクトする自分にとって、その娘のソフィアの自宅を訪問し撮影することは起業したばかりの自分にはかなりの緊張の連続だった。
    プロジェクト自体も順調と言うより、皆さんこだわりの多い人達で実際はかなり難航した。

    以下のウエブに『Baby Generation』については記載されている。
    http://d.hatena.ne.jp/jun_amai/20101101/1288601237

    因にBaby-Gの20thのビジュアルはソフィアの姪のジア・コッポラが担当しているらしい。
    昔の仕事をパクられた(笑)気もするが、良しとしよう。

    【2014/05/15】

    ウディ・アレンの新作「ブルージャスミン」を辻堂で観た。


    「マッチポイント」(2005年)辺りから続く、ヨーロッパ都市シリーズ。

    バルセロナ、パリ、ロンドン、ローマと続き、

    今度は本拠アメリカに戻り、NYとサンフランシスコが舞台。


    1977年「アニーホール」以来、アレンの作品は都市の風景を記号として、とても巧みに

    取り込んでいる。(ここでは、NYと西海岸のライフスタイルの対立が象徴的に描かれる)

    それぞれの観客の都市への記憶やイメージを計算して作品が成り立つ。


    今回は定番のNYと多分初の取り組みとなるシスコの風景とライフスタイルが対立的に登場し、

    華やかな過去と落ちぶれた現在をあぶり出す。


    どちらかと言うと群像劇が得意な最近のアレンだが、今回はケイト・ブランシェットの鬼気迫る演技を引き出す事に注力している。


    出て来る人物は皆通俗的で、話しの展開も「昼メロ」的な身も蓋もない話し。


    だが、アレンのフィルターを通る時、「ミッドナイト・イン・パリ」のほろ苦コメディも

    本作のような通俗的な話しも同質的なウディ・アレンの世界になる。

    皆、この味が食べたくて「アレン・レストラン」に通い続ける。

    まさに「アレン・マジック」だ。


    ダイアン・キートン、ミア・ファロー等、アレン作品に溶け込んで来た女優達とは違う、

    監督と女優が違和感を戦わせながら新しい作品をまた生み出した。


    ケイト・ブランシェットの凄みとその背景となるサンフランシスコの風景がたまらなく魅力的な作品だった。

    ※ケイト・ブランシェットは「アニーホール」のダイアン・キートン以来のアカデミー主演女優賞を獲得した。


    それにしても、ケイト・ブランシェットはもの凄い存在感と演技力という言葉では到底表せないリアリティ。

    ウディ・アレン×ケイト・ブランシェットと言う夢の組み合わせが、元々凄い彼女のマグマのような内面から、さらに人を振るわせる何かを絞り出したのである。

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