ifca showroomはファッションを
得意とするPR会社です

ifca showroom

TEL
MENU
表参道沿いの表参道ヒルズの目の前という好立地を活かしたPR活動を展開。アパレル、ジュエリー、シューズ、バッグからスポーツブランド、時計、デジタル機器まで幅広い国内外のブランドを展示し、来場するスタイリストや編集者へのお貸出しを行っています。

Profile

Profile

曽原 健
(PA Communication代表)
経歴

立教大学社会学部社会学科卒。
1995年外資系代理店マッキャンエリクソンを退社して独立。90年代後半G-SHOCKブームの牽引車として活躍し、2004年ファッションブランドのPRを行うifca showroomを表参道に開設。
現在、ファッションブランドやスポーツブランドに特化したPR会社で数多くのPR戦略を指揮する。

PR&ブランディング実績ブランド

G-SHOCK、ASICS、Amazon、FOREVER21 and more

趣味

ダイビング、歴史小説、DJイベント、城廻り

出身

東京生まれ 鎌倉育ち

ifca showcase
PAC
Ken Sohara Twitter
ifca showroom twitter
ifca showroom facebook
お気に入りに追加する
RSS

Search

Recent Entry

    Category

    【2013/08/22】

    イルクジ復活


    この後、1995年3月に自分の人生にも転換点が訪れる。

    社員として在籍していたマッキャンエリクソンを退社する。


    直接の端緒はメインクライアントのコカコーラが電通にコンペで取られ社員数を維持出来なくなったため大規模なリストラを敢行し、その希望退職の年齢制限が40代から30代に引き下げられたことである。(当時33歳)


    しかし、本当に辞めたいと思ったきっかけはその前年にあった。

    1994年にベルリンのブランデンブルグ門で開催されたMTVヨーロッパ・ミュージック・アワードにカシオはG-SHOCKとして協賛し、コラボしたG-SHOCKも制作している。

    それを仕掛けたのが当時SP本部の企画部門にいた自分である。


    これがそのレアなMTVのG-SHOCK


    当然、ベルリンに行くことも営業から約束され、一億にも近い予算のこの大規模でグローバルな仕掛けに胸を躍らせていた。

    しかし、結局利益率が低い等の理由で出張は見送られ、何もしていない営業の局次長が得意先の接待と称して同行することになった。


    自分にとって仕事はお金が全てではなく、仕事でなければ体験出来ないレアな現場や仕掛けた時のユーザー反応が自分にとっての醍醐味であった。

    ベルリンの壁が崩壊してまだ数年、そこで開催される大イベントに参加出来る自分を想像しながら、残業や休日出勤にも耐えて来た、それが裏切られたのは大失望だった。

    自信を持って成立させた企画なだけに、やはりサラリーマンでなく自分で独立してなくては駄目だという強い想いが生じ、希望リストラをきっかけにそれが弾けた感じだ。

    結局そのリストラでは100名ほどが申し込み、社員の1/5が削減されたのである。


    それにしても独立したのは良いが、自分にしかるべき展望も無く、独立後数ヶ月は退職金を取り崩す日々だった。

    社長という肩書きは名ばかりで仕事が無ければ、世間の藻くずと消える寂しい存在だ。

    辞めたばかりの会社で担当していたカシオの仕事を仁義的にやることも躊躇われ、代理店の下請けとして企画書制作で生計を立てていたのだった。

    自分がG-SHOCKと再び関わることなど皆無に思え、世の中を騒がすG-SHOCKを見る度に虚しい気分にさせられていた。


    そこに舞い込んだのが当日カシオで時計の販促部門で係長をしていた鈴木氏からの電話だった。「曽原さん何してるの?マッキャンはリストラでカシオ担当の大半が辞めてしまい困っているんだよ」という。


    そして、自分が企画したが失敗に終わったと思われたG-SHOCKの「イルカクジラ」にカシオ社内で復活の兆しがあり、それを手伝ってくれないかという「暗闇から光明」を見出すような話しだった。


    【2013/08/21】

    初代イルクジの挫折


    引き続き以下の記事に沿って話題を進める。


    90年代のG-SHOCKブームを、コラボモデル&テーマモデルで振り返る (誠Style)

    さて、94年になると伊東氏が営業所から本社の時計企画部門に抜擢される。

    当時マッキャンに在籍していた自分もこの強烈な個性を持つ伊東氏と初体面を果たす。

    「広告代理店は一切商品企画には関わらなくて結構。全部自分がやりますから」

    マッキャンのカシオチームを集めた彼はそう言い放った。


    西武でのG-SHOPを発信基地にコラボモデルを、と企んでいた自分は見事に出鼻を挫かれたわけである。


    以下上記記事からの引用。

    「ファウンデーションモデルとは、自然環境保護団体とコラボレーションし、売上の一部を団体に寄付することで、保護運動をサポートするというモデルだ。
    ファウンデーションモデルの第1弾は、1994年に発売された「国際イルカ・クジラ会議モデル」(通称「イルクジモデル」)。イルクジモデルはその後も毎年発表され、最新モデルは2012年6月から販売されている(参照記事)。」


    伊東氏から相手にされない自分は羽村にあった開発部門のA氏と組んでコラボを仕掛ける。

    それが引用記事にある別名「イルカ・クジラモデル」(イルクジ)だ。

    時計企画部門の伊東氏と時計開発部門現場のトップA氏はG-SHOCKを巡って当時は対立関係にあった。

    企画部門は時計のコンセプトを営業部門のハブとして考え、開発はまさに時計のデザインや技術を司る部門だ。


    こういった外部と組む、今で言うコラボレーションはG-SHOCKとして初の試みであった。

    ※コラボレーションと言わず、タイアップモデルと呼んでいた。

    これを西武にあるG-SHOP限定企画と言う形で販売したのが初代イルカクジラだ。

    しかしカシオ社内では異論が強く隠密でこのプロジェクトは進められた。

    そこで既存の黒のG-SHOCK本体にイエローのG-SHOCKのベルト部分を解体し取り付けて2トーンに仕上げるという苦肉の策がA氏により取られた。

    当時ダイビングにはまっていた自分は、ストリートイメージの強いG-SHOCKであるが、防水機能も搭載ということでマリンイメージを付けることでユーザー層を広げられないかと考えた。自分が使っていたウェットスーツが黒ベースに黄色だったため、実は「黒×黄色」がマリンによく採用されるカラーリングであると説いたのである。

    黒と黄色という2トーンは今で言えばイルクジの定番だが、G-SHOCKとしては奇抜なトーンは受け入れられず僅か3000本限定ながら完売するのに数年を要す不遇の作品となった。


    今では数万本が発売と同時に完売するイルクジだが、初代は難産の末に失敗作と言う挫折のスタートだったのだ。


    初代イルクジ


    今年のG-SHOCKイルクジモデル
     初代モチーフの黒×黄色。苦渋をなめた初代だが、時代を経て認められる存在に。


    【2013/08/20】


    G-SHOCKブームと私


    90年代のG-SHOCKブームを、コラボモデル&テーマモデルで振り返る (誠Style)


    という記事をWebで発見した。


    実は筆者もこの90年代のG-SHOCKブームに深く関わった、というよりも弊社の立ち上げとこのG-SHOCKブームは切っても切れない縁にある。


    1993年10月、まさにG-SHOCK第一次ブームの真っ盛りであった。

    G-SHOCKが世に出たのが1983年だから丁度10周年。


    自分は当時外資系広告代理店マッキャンエリクソンの社員であった。

    今で言えばボップアップショップの走りであろうか。

    自分の仕掛けで「G-SHOP」というG-SHOCKのインストアのオンリーショップを渋谷西武の中に開設した。

    今となっては凋落してしまった西武百貨店であるが、当時は渋谷と言う流行の発信地にある渋谷西武は今で言うと新宿伊勢丹レベルの格がある店舗であり、流行の兆しはあるもののまだまだマイナーなキワモノ時計であったG-SHOCKのオンリーショップを作ると言うのはかなりの冒険であった。


    ヨドバシカメラ、さくらやと言ったカメラ量販でしか売っていなかったG-SHOCKが一流百貨店に発信基地を持つことで、当時は珍しかったコラボレーションモデルを企画出来る環境が出来たことになる。

    マニアックな若者の間でブームの兆しがあったG-SHOCKをさらにビッグにするためには、第三者と組んだコラボが必要だと感じた私はその仕掛けのチャンスを狙っていた。


    以下、上記記事より引用。

    「初代G-SHOCK「DW-5000C-1A」が誕生したのが1983年(参考記事)。当時の腕時計の売れ筋に逆行していたG-SHOCKは日本ではあまり話題にならなかったが、米国でその丈夫さが評判を呼び、米国では人気が出たのに日本ではほとんど売れないという状態が10年以上続くことになる(参考記事)。
     1995年、米国でのヒットを逆輸入する形で日本でもG-SHOCKブームが起き、2000年ごろまで続いた。このときブームを仕掛けたのが、1994年からG-SHOCKの商品企画を担当し、現在はカシオアメリカで会長と社長を兼任する伊東重典氏である(参考記事)。」


    そう、今や有名人となったG-SHOCK育ての親である伊東重典氏も1993年には本社ではなく営業所勤務で時計の企画とは無縁の環境にいたのである。


    | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |