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表参道沿いの表参道ヒルズの目の前という好立地を活かしたPR活動を展開。アパレル、ジュエリー、シューズ、バッグからスポーツブランド、時計、デジタル機器まで幅広い国内外のブランドを展示し、来場するスタイリストや編集者へのお貸出しを行っています。

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曽原 健
(PA Communication代表)
経歴

立教大学社会学部社会学科卒。
1995年外資系代理店マッキャンエリクソンを退社して独立。90年代後半G-SHOCKブームの牽引車として活躍し、2004年ファッションブランドのPRを行うifca showroomを表参道に開設。
現在、ファッションブランドやスポーツブランドに特化したPR会社で数多くのPR戦略を指揮する。

PR&ブランディング実績ブランド

G-SHOCK、ASICS、Amazon、FOREVER21 and more

趣味

ダイビング、歴史小説、DJイベント、城廻り

出身

東京生まれ 鎌倉育ち

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    【2017/02/09】


    誰の人生にも「尊敬する人」「影響を受けた人」など忘れることのできない人はいるだろう。


    昨日は「最も凄いと思う人」のうちの一人と7-8年振りに再会した。


    場所は代官山の「TAKUBO」。

    食事をするのは10年振りくらいだ。


    多分、会社員という分類であれば今まで会った中でNo.1に凄い人物である。


    現在カシオ計算機の専務まで上り詰めた伊東さんである。


    このブログのG-SHOCKの項で何度も彼については述べている。


    彼についてはこの記事をご覧いただきたい。

    米国でG-SHOCKブームを仕掛けた男、その4つの視点――伊東重典氏


    自分が起業して暫くするとG-SHOCKブームが起こり、自分もその中で様々な貢献をした。


    特に「イルカ・クジラ」「UAモデル」「WCCS」「アントワープ」等数多くの限定モデル(テーマモデル)の企画を外部ブレーンとして手がけてきた。


    その時の商品企画の責任者が伊東氏である。


    起業して最初に手がけた「イルカ・クジラ」は秒殺で完売するヒットとなりブームの発火点となった。

    さらに、ユナイテッドアローズと組んだアナログGも伊東氏と一緒にUAを口説いた産物だ。

    伊東氏とはアントワープに共に出張し、現地のデザイナーとコラボしたG-COOLを作った。

    その時の出張では現地のデザイナー達と大揉めしたが、それも良い思い出だ。


    90年代後半から2000年頃まで彼と二人三脚で数々のヒットモデルを仕掛け、彼はその功績で30代で部長に昇進した。


    その後、アメリカのカシオに赴任してG-SHOCKの快進撃に貢献しカシオ・アメリカのCEOになった。


    昨年日本に帰国し取締役専務に昇進し、全世界の営業の責任者となった。


    そして、台湾カシオの社長を務め最近帰国した小川さんの音頭で久々の再会が実現した。

    小川さんとは2008年に伊勢丹で販売記録を樹立したコラボレーションを共に仕掛けた仲。


    酒席で伊東氏から「曽原さんは俺たちの同志だから」と言ってもらえて無上の喜びだった。


    できれば彼には社長になって欲しいから、そのために久々に自分もG-SHOCKの仕事がしてみたいと思った。







    【2017/01/19】

    1/14〜16に沖縄に訪れた。

    ここ数年沖縄には年2回は、多い時は3回は訪れているが「冬の沖縄」は初だ。


    大きな寒波が訪れた関東から10月程度の気温の沖縄は快適だった。


    もちろん、泳ぐことはできないが、夏ではできない楽しみがある。


    夏は暑くてきつい沖縄の史跡巡りである。


    沖縄は古くは琉球と称した。

    wikiによると、

    琉球王国 - 1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。

    琉球藩 - 1872年から1879年まで存在した藩。1879年に鹿児島県に編入され消滅。

    となり、

    紆余曲折を経て、

    琉球政府 - 1952年から1972年までアメリカ合衆国統治下の沖縄に設置された政府。日本国復帰により沖縄県となった。

    と今に至る。


    今回訪問した史跡は、北部の世界遺産の今帰仁(なきじん)城跡。



    公式ホームページによると、


    今帰仁城跡とは、沖縄本島の北部、本部半島にある歴史的なグスクです。世界遺産にも登録されたグスクは、沖縄県の県庁所在地である那覇市から車で約1時間30分の距離にあります。

    今帰仁城跡の歴史は古く、13世紀までさかのぼるとされています。堅牢な城壁に囲まれたその城は、標高約100メートルに位置し、やんばるの地を守る要の城でした。

    今帰仁城跡の写真 世界遺産攀安知(はんあんち)時代に、中山軍(ちゅうざんぐん)に滅ぼされてからは、監守(かんしゅ)が派遣されるようになり、1665年に最後の監守が引き上げてからは、祭りを執り行う場所として残されました。


    とのこと。


    広大な敷地には城壁の名残である石垣が多く残され、往時を偲ばせる。


    「夏草や 兵どもが 夢の跡」

    芭蕉の一句が思い出される。


    登りつめると海が眺められる素晴らしい眺望。



    南部にある斎場御嶽もオススメの史跡である。

    【2017/01/13】

    年始(1/2-4)に大阪に旅行をした。

    仕事では良く訪れる大阪だが、いつもトンボ帰りで観光などしたことがない。

    関西だと京都という感じになりがち。

    2016年の年始は真田一族所縁の上田を訪れ、居城の上田城などを観光した。

    そして年末の大河は幸村が戦死した大坂で幕を閉じた。

    ということで大河と連動した今回の大阪訪問。

    早速、大坂城を訪れた。


    天守閣



    この大坂城は実は豊臣方のものではない。

    豊臣の大坂城が大坂の陣で炎上した後に、徳川が1626年に再建したものを、さらに
    1931年に復元したものである。

    ということで、あまり今まで関心が湧かずに訪問することはなかった。

    (現存天守と言われる江戸時代以前に建設されて今も残っているものにしか関心がなかった)


    今回「真田丸」を契機に、城というよりも、周辺環境を歩いて大坂の陣を体感することを

    目的とした。


    大坂城周辺は公園になっていて、その中には豊臣秀吉を祀った豊国神社もある。

    豊国神社の秀吉像


    うーん、真田丸の小日向文世が演じた認知症の頃の秀吉と違い勇ましい。



    天守からの眺め。


    秀吉になったつもりで眺めると壮大で気持ち良い。


    秀頼の気持ちで眺めると、下には20万もの徳川方の攻め手の兵たち。

    相当悲観的になり、とにかく籠城しかないと思うのは当然かな。。






    【2016/12/28】

    「望みを捨てぬ者だけに道は開ける」


    2016年の大河ドラマ「真田丸」の後半。

    主人公の真田信繁は幸村と改名し絶体絶命の大坂城に入城、圧倒的に不利な豊臣方を勝たせることをミッションとし様々な策を講じる。

    そして、その度にこの言葉を連発して、周囲を鼓舞していた。


    後世の歴史の結末を知る自分達から観ると豊臣方の勝利は絶望的だが、戦っている本人たちは一縷の望みをかけて勝つつもりだったのだろう。


    「真田丸」の初回を見直すと、父の昌幸が滅亡寸前の武田家当主の勝頼に「最後まで望みを捨ててはなりません」という主旨の言葉をかけるシーンがあった。


    つまり「最後まで望みを捨てるな」は首尾一貫して作者が伝えたかったテーマの一つだろう。


    弊社も2016年の前半戦、メインクライアントの不調等もあり利益的に厳しい戦いが続いた。


    その時に私も社員達に対して「最後まですがりついて、様々な手を尽くせ」と伝えてきた。


    無くなる寸前までのクライアントもあったが、首の皮一枚繋がった所もある。


    ピンチにも知恵を総動員し、あらゆる手を使い、継続を試みた結果だ。


    そのせいかわからないが、後半戦に活路が開け、過去最高利益を出した昨年度に迫る勢いを回復している。


    結果としては昨年を下回るかもしれないが、良い成績で今年を終えられそうだ。


    「望みを捨てぬ者だけに道は開ける」

    【2016/12/21】


    2016年の大河「真田丸」が12/18に最終回を迎え、SNS上での「真田丸ロス」が広がっているらしい。

    ロス解消には思い切り冷静に分析するしかない。


    最終回、家康(内野聖陽)を倒すの一念でひたすら鬼神のように突き進む真田幸村(堺雅人)。

    遂に一対一の対決を迎え、銃口を迎える幸村に対して家康が、

    「戦で雌雄を決する世は終わった。おぬしのような、戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いは、生きてゆくところなど、どこにもないわ!」

    と言い放つ。

    この作品のテーマの一つが集約された台詞。


    中世も後半となり一対一の白兵戦は終わりを告げ、秀吉の天下惣無事令により全国から小競り合いのような戦が一掃される。秀吉の死後は関ヶ原や大坂の陣のような近代兵器を駆使した数万人単位の大規模な天下分けめな戦だけが戦争となり、この大坂の陣を最後に戦さは終わり幕末まで長らく大平の世が続くことになる。

    そんな時代の分け目にこの真田信繁は生まれついた。


    古き良き戦国の生き残りである信繁の父、真田昌幸。

    昌幸はその師である絵に描いたような戦国大名の武田信玄を崇拝し、古き良き戦国の美学の復活を夢見つつ九度山で死んでいく。


    その父から戦国の戦さの極意を学び大坂に入場した真田信繁。


    家康の時代を鋭く分析したような言い草に対して、信繁は

    「そのようなことは百も承知! されど、私はお前を討ち果たさねばならぬのだ! 我が父のため、我が友のため、先に死んでいった愛する者のために!」

    と論理無用の個人的な物語をベースに返礼をする。


    いつのも大河のようにひたすら主人公を礼賛するのではなく、ある種時代遅れで自己陶酔的な人物としても信繁(幸村)は描かれているのだが、最終回でも貫かれるそこに好感が持てる。


    さて三谷大河の愉しみは主役級の名優たちだけでなく、助演級や脇役の知られざる役者を発掘することにある。

    自分は真田信尹(栗原英雄)、板部岡江雪斎(山西悟)、織田有楽斎(井上順)等の脇の出番は少ないがキラリと光る演技にも注目して来た。
    特にテレビ初出演という劇団四季出身の栗原英雄演じる昌幸の弟、信繁の叔父「信尹」が登場した時の清廉として緊張感のある空気感に痺れた。

    ※Twitterに栗原さんについて投稿したら100以上リツィートが


    兄の昌幸のサポートに徹し信尹は各国を調略の旅で放浪し、最後には真田の仇敵の徳川家に雇われる食えぬ人物。
    この信尹が前半戦の「調略」の回で、信尹に憧れる甥の信繁に「わしのようになるな」と言い放つ。
    その後、口封じに春日信達という人物を躊躇なく誅殺するシーンがある。


    もう一つの前半戦の山が「祝言」の回。

    昌幸が信繁の祝言に事寄せて、何かと自分に楯突く幼馴染の室賀正武をおびき出し誅殺する回である。

    殺戮が起こる前、昌幸と室賀が囲碁をするシーンがあるが、本大河最高の名シーンであった。

    そして、殺戮劇後、瀕死の室賀を寺島進演じる出浦がきっちりととどめを刺す。

    信繁がその場を見るのは惨劇が終わった後だった。


    さて最終回に話は戻る。

    徳川方に内通していた大坂城の料理番の大角与左衛門。

    内通を疑う信繁は与左衛門を問い詰めるが、与左衛門は箸を腹に刺し自決したかに見せる。

    ここでとどめを刺さなかったために、死んだフリした与左衛門はその後に城に火をつけ大坂城は火災となり落城を迎える。


    ここで思い返される「わしのようになるな」という叔父信尹の言葉。

    「わしのようになるな」=「わしのように冷酷非情になるな」と解釈すると、信繁が一瞬与左衛門に憐憫の情を示したのが仇となる。

    そして室賀惨殺の現場を体験してなかったこと。

    あの現場自体を否定した若き日の記憶が躊躇いを呼んだのか。


    叔父や出浦のように躊躇無く与左衛門を殺すか、とどめを刺すべきだった。

    その甘さが仇となり有利に戦いを進めていた大阪方は滅亡し、「豊臣を勝たせるため」に入場したはずの信繁のミッションは果たされることはなく終わる。


    しかし、家康を追い続け、追い詰めた信繁は「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と言われて名を残すことになる。


    大所高所に立った戦略の冴え、出城からの攻撃というゲリラ的作戦の冴え、そして家康を単騎討ち果たすという実現性は低いが派手な賭け。

    人生最後に昌幸から伝授されたことを己流にアレンジし、後世に名を残すことを成し遂げた真田信繁。


    しかし一人の料理番を確実に殺すという戦国の基礎を疎かにしたがために味方は滅亡に至る。


    美学に殉じた生き方はかっこいいけど、仕事人としてはどこか間抜けで中途半端。そんな主人公を肯定も否定もせずに最終回は終わる。


    戦国という生き馬の目を抜くような時代が終わりを告げ、近世がひたひたと押し寄せる時代の境目に、翻弄された真田家を「真田丸」と一艘の小舟に例え名付けた意味が最後に開花した。


    そして、最後の場面で知行地はあったが大坂にいたため人任せで「領民を統治する」という経験をすることが生涯なかった信繁と、若年から領主として沼田を統治し後には松代藩の藩主となる兄の信之との決定的な差が描かれる。


    最後の場面に登場したのは意外にも本多正信を演じた近藤正臣だった。

    世間的に家康側近の謀将として知られる本多正信であるが、大領を望まず相模玉縄(今の大船付近)に1万石のみを領した。

    最後の場面は鎌倉出身の自分には懐かしい鎌倉の玉縄だった。

    実は名君だった正信から信之に「領国」のコツが伝授された。


    戦いの時代から、経営の時代へと時代が移り変わったことが最後に語られた。


    そして明智光秀、石田三成と数多くの大河に出演し名演を残し、今尚進化する名優・近藤正臣本人から大河ドラマの伝統のバトンが大泉や堺に渡されたように感じたラストでもあった。 










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